2013年4月7日日曜日

感性の怪物

 すっかりご無沙汰してました。

 昨日は仲良くしてもらってるバンド、残響アストロニカさんの企画ライブに出演させてもらった。数ヶ月前ギター兼ボーカルの松本君がソロで下北沢ERAに出演した際に僕らも一緒に出演したのだけれど、バンドの演奏をみるのはほぼ一年ぶりだったように思う。メンバーが変わり、演奏スタイルが変わり、飽くなくも攻撃的に音を追求していっているのだなと感じ、非常に好感が持てた。一緒に出演したバンドでも独自の世界を構築しつつあるバンドがあり、いち音楽ファンとしてうれしかった。

 終わりなき追求へ疾走するものもあれば、道半ばで歩を止めてしまうものもある。昨日のイベントでも、今日がラスト(いや、ラスト一本前ライブだったか)ライブだというバンドがあった。このごろ、ライブに出演する度にそんなバンドと対バンすることが少なからず、ある。

 音楽に限らず、芸術は「終わりがない」のだ。どんなにその出来映えに満足したところで、その次の瞬間にはその次のものを欲している自分に気づく。なぜだろう。それは、感性という怪物が目覚めているからなのだと思う。

 普通に生活している分には、その怪物はひっそりと息ささやかに眠っている。通常の現実世界にはその怪物を起こすような目覚まし時計は見かけない。しかし、その目覚まし時計は実際に存在する。CDショップで、書店で、美術館で、ライブハウスで、コンサートホールで…ありとあらゆる「文化」がその目覚まし時計なのだ。

 芸術を追求するものは、遠い昔に出会った「衝撃」という目覚まし時計が感性の怪物を目覚めさせ、長い時間をかけてその怪物を育て上げてきた。もちろん、知らぬ間に。怪物は欲することをやめない。自分という体を使い、感性を刺激する「食べ物」を食いあさる。どんなに極上のものを与えても、食べ終わった次の瞬間に「今度はもっとこうしてみようか」と、無理難題を突きつけ、さらに煽り立てる。結局のところ、芸術はそういうことの繰り返しだと思う。そうして、耐えられなくなった人は、怪物を殺してしまい、創作をストップする。

 音楽活動をやめる理由は、本当に様々だと思うが、創作への意欲がある限りは、どんな形であれやめることはないのだと思うから、そうするとやはり意欲をなくしてしまったのかと、残念に思う限りだ。

 ここで話題にしているのは、ミュージシャンではなくてアーティストのことだ。ミュージシャンは誰だって続けていける。軽視してそういっているのではない。新しい革新的なことを模索するアーティストのことを、僕は話している。

 僕は思う。音楽の創作をやめてしまったら、僕はどこで自分のバランスを保てばいいのだろう。旅行?ショッピング?飲み会?車?マイホーム?…あまりに現実的すぎて、簡単にこの世に別れを告げてしまいそうだ。

 怪物は僕らに巣食っている。だから、blaudropsという名前を使って感性のエサをつくりださなければならない。次々と、永遠に。


えーじ

2012年11月10日土曜日

安全網がないということ。

 ある著名な活動家と科学者が出版した書籍を読んだ。その中でとても共感できることがいくつかあった。

 まず、日本ではもう革新的なイノベーションが長らく起こっておらず起こる気配もないことが、ものづくり大国として東アジアを牽引してきた国家としては非常に危惧されるところである。その理由のひとつとして、日本的倫理観(というか教育というか)が高度経済成長を通してよからぬ方へ歪曲してしまったことが挙げられるという。簡単に言うと良い学校へ入って、良い会社へ入って、穏便に人生を送ることが良しとされた社会風潮が、全体的な社会のレベルを下げてしまっているという。その通りだ、挑戦することを抑制された環境では何も生まれはしない。せいぜい自慰行為に耽ってその憂さを晴らす程度で満足してしまう。

 そして、若者の就職難やホームレスの増加について。「あの人はがんばらないから」とか「みんな歯を食いしばってやってるんだ」、「きっと何かに絶望して無気力になったんだ」という精神論ではもう回避できない惨状が現実として広がってきているのだ。なぜ頑張れないのか。それは、「それを頑張れるだけの自分を支えてくれる何かが欠乏しているから」なのだという。人によっては友達だろうし、家族だろうし、お金で買えない人間生活で必要な何かが決定的に欠乏した人たちが増えてきた結果、そのような惨状が拡大しつつあるという。ここ数十年で生活のあり方が変化し、それに伴い家族のあり方も多様化し、複雑な家庭環境で過ごしていく中で、人間として最低限必要な人間関係を上手く保つ事ができなくなってしまった人は、どれだけ生活保護を受給しても、人間関係を上手く築けないがために生活が破綻してしまうことも少なくない。人間の生活は、お金だけで成り立つものではないのだ、ということだ。

 そのために、著者はパーソナルサポートという取り組みを通して、就業の支援だけでなく、お金以外で人間として必要なものを得られる場を提供し、誰もが幸せに暮らせる社会の基盤を作ることに尽力しているとのことだった。

 僕がこれを読んでブログを書きたいと思ったのは、何も内容に共感したからだけではない。これこそ音楽だの芸術だのの発展を妨げている障害であり、芸術はその「お金以外で人間として必要なもの」に匹敵するものではないかと思ったからだ。

 日本でも芸術家として常に前を向いて、過去の自分と対峙し、新しいものを創りだそうとしている人は、いるにはいるのだがそう多くはないように思える。僕個人の感覚としてはむしろ、社会のニーズにあわせて、自分の創った物を摺り合わせていくという、芸術の商業化が進んでいるといった印象を受けている。これは、社会が芸術を軽視し敬意を払わなくなったことの結果だと思っている。仕方なく芸術家達は社会に受けいられやすいものを作品として発表し、それを芸術と思って育った若者はお金を得るために芸術家を目指す。結果、本来高尚であるはずの芸術は、万人の目にすんなりなじむいわば「あってもなくてもいいもの」に成り下がった。

 これがもし、芸術家目指す万人を奨励する制度がしっかり整備されるようになったとしたら、気兼ねなく制作に打ち込める環境を無償で与えられたとしたら?芸術はもっと人々の近くにあるはずだし、もっと人々の生活は鮮やかになるはずだろう。このことは音楽にも言える事だ。どのジャンルの音楽だろうが、新しい作品はいずれ次の時代の標準となって人々の心を癒す。それこそ、「お金以外で人間として必要なもの」として人々が何かに挑戦するときに励ましてくれるものになるかもしれないし、それがきっかけで産まれたものは、より私達を豊かな生活へ導いてくれるかもしれない。

 こんなことを思ったから、バンドのブログに書こうと思ったのだ。皆様、お久しぶりです。寒くなってきましたね。

 次回ライブは、11/27(火)下北沢ERAにて。恐らく今年最後のライブになるかもしれません。

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ERA presents CREATING IMAGES

blaudrops
How to count one to ten /
/TRACK /nico /blaudrops /she,in the haze /frameworks /duludulu /

17:30 Open / 18:00 start
1800yen (adv.)
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 前回のライブより、僕は鍵盤を弾いています。まだまだ練習中なので大きな声ではいえないのですが、今まで練習してきて「なんでもっと早くに鍵盤をはじめなかったのだろう」と思うことが多々あります。それくらい、楽しいしアイデアが湧く。ギターも素晴らしい楽器だし、楽しいからこれかも弾き続けるけど、今後鍵盤は多用すると思います。考えてみれば、自分が尊敬するギタリストは思いつかないけど、ピアニストは何人かすぐに思いつく。好きな作曲家もピアニストが多いしな。何にせよ、音楽が好きでよかったと思える生活を送れて幸せだなと思えているのだから、この生活に感謝しなければと思います。


えーじ

 

2012年3月11日日曜日

進化という名の現状維持はもういらない。

さて、blaudropsに新曲ができた。「斜陽の修羅」(仮タイトル)という曲で、なかなかどうして、良い曲に仕上がってきていると思う。特筆すべきは和的イメージを彷彿させるメロディラインよりも、木暮君のギタープレイであると思う。身内の僕が言うのもおかしな話ではあるけれど、どれをとっても本当に絶妙。はじめて彼のプレイを聞いたとき、正直ぞくっとした。その衝撃を是非みんなにも味わってほしい。次回ライブは3/27(火)、下北沢ERAにて。myspaceにて公開中の「響きと怒り」と前述の「斜陽の修羅」の2曲を収録したCDを販売する予定なので、是非足を運んでいただき、生でその衝撃を目撃した流れでお買い上げいただきたい。うん。

僕はアーティストとミュージシャンは別個のものであると思う。多くの人がこれに同調してくれるものと思うが、しかし現状として、アーティストという言葉が簡単に乱用されてはいないだろうか。もともとの語源は"Art”であることを理解して、"Artist”という言葉を使っているとは到底思えないところでその言葉を耳にすることがままある。

絵画の知識は全くないのであまり偉そうなことは言えないのだが、芸術の歴史としてはロマネスク、ルネサンス、バロック、ロココ、新古典、写実主義、印象主義、そしてコンテンポラリーアート(多分この流れであってると思うけど違ったらごめんね!)と常に変化を遂げてきた。今でこそ印象主義は人々の目に慣れ親しんでいるが、マネ、モネ、ルノワール、セザンヌたちが初めて作品を発表したころ、人々はとても奇異な目でその作品を眺めていたそうであるが、いつの間にかそれらの作者が美術の歴史を動かしていた。既成概念を覆した彼らは、間違いなくアーティストであったのだろう。ゴッホに至ってはそんな印象派の人々からも(親友だったゴーギャンからさえも)総スカンを食らっていたにもかかわらず、21世紀の今でも賞賛の声は変わらず世界中で響いている。

既成概念を覆す。ここに、アーティストの価値を見出すひとつの基準があると言っても過言ではないように思う。

音楽の世界でも、同じ事が言えるのではないのだろうか。

音楽に関わっている人間には、大きく分けて2種類あると思う。一つは音楽を演奏する(誰かが演奏できるように助ける)人間。これは大多数。もう一つは、音楽を作る人間。これは音楽に関わる人間があるべき姿でもあるにも関わらず、実は少数派。すごく極端な言い草になってしまったけど、最近とてもそう思う。

大学教授・思想家の内田樹氏の著作「街場のメディア論」に「発言する前に、それはあなたがいうべきことなのか、一度よく考えてみるべきだ。他の人が言っていることを、あなたが改めて言ったところでそこに価値はあるのだろうか」というような内容の記述があったと記憶している。これを音楽に置き換えてみれば、僕の言いたいことが分かってくれると思う。誰かがやっているようなことは、もうやる必要はないのだ。そこには芸術性はなく、あるのは「皮肉な惰性的安心」だけなのだ。それでもまだ、アーティストという言葉を頻繁に使う人がいるならば、その人はこの世界のどこかにある創造の楽園の住人か、はたまた無知の知というものか…

芸術というのは、本当は泥臭いものだと思う。創造は苦しみである。苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いてようやく生み出せた時に初めて、そのプロセスに創造という名を与えても良いだろう。簡単に、カジュアルにできたものを表現するときに、芸術という言葉は、似合わない。

以前も宣言した通り、blaudropsはアーティストである。世界中どこを探しても、こんなバンドはいないというくらいのオリジナリティを確立しなければいけないし、今までにない衝撃を作り出さなければならない。使命感が今blaudropsを攻め立てている。これこそ、創造の第一歩なのだろうと感じる。

進化という名の実質現状維持はもういらない。欲しいのは、「変化」である。

えーじ


次回ライブ:
3/27(火)下北沢ERA 「ERA Presents Creating Images」
17:00 Open / 17:30 Start Ticket : 1800yen (adv.)

blaudrops / The Spit and Honey / Karui Omoi/ The Voxies / Cue:Spec / ステラ・シンカ

詳細→ http://goo.gl/XS38H
下北沢ERA地図→ http://goo.gl/jKiMu

※CD販売あり!「響きと怒り」と新曲「斜陽の修羅」の2曲入り。¥200を予定。

2011年11月11日金曜日

2011年の終焉に。

夏が過ぎ、秋が色めく木々を連れて今年も訪れたかと思えば、ここ数日で冬の到来を感じさせるような気候になった。秋は最も僕が好む季節で、いつも秋を基準にして季節を過ごしている。

秋が来ると、不思議と安堵を感じる。それは、移り行く自然の色付けの美しい変化からか、灼熱の太陽に照りつけられた夏という季節への嫌悪からか、またそれに浮かれた人々への軽蔑からか…とにかく、この季節は一番、抒情的で何を見ても何かを感じ取れる。

夏には、決して1年を振り返ることはない。1年の半分以上を過ぎたというのに、大抵の人は、夏こそ1年のうちで一番楽しむべき季節なのだと思っている。そして、9月、10月と時間が経ち、空気が澄み、上着を羽織るころには人々は時間の経過の早さに焦燥し、何となく1年を振り返る。

僕は、夏が嫌いだ。今年はいけると思ったが、少しは好きになれると思ったが、やっぱりだめだった。毎日毎日夏が過ぎ去り、秋の涼風に吹かれ燃えるように色めく木の葉の中を闊歩する自分を想像しながら過ごしていた。

ようやく、秋が来た。待ち望んだ秋だ。

しかし、他の季節に比べて、秋はとても短い。実際秋を五感全てで感じ取れる期間など2週間もないのではないだろうか。その儚さは、春のそれと少し、似ている。

そんなわけで、僕は日々元気に過ごしている。

そんなわけで、次回11月21日(月)が年内最後のライブとなった。以下、詳細。

11/21 (月) @下北沢 ERA
18:00 open / 18:30 start
Ticket : 1800yen (adv.)

The Golden Murphy’s /
blaudrops /
SHELTER /
やまみ (after the greenroom) /
imi/pop

その次のライブは、1/25(水)を予定しています。新曲発表会になるので、是非、是非、是非来て頂けたら、と思う。

それにしても寒い。だが、嫌いじゃない。もっと寒くなれ。

2011年10月8日土曜日

またまたご無沙汰と一カ月。

すっかりご無沙汰になっておりました。

9月の頭に最後にライブをしてから早一ヶ月が経過しました。この一ヶ月間は、二人とも多様に多忙な日々を過ごしており、再び10月17日@新宿Nine Spicesへと向けて始動した次第であります。

僕個人のこの一カ月の経過を少しお話させていただくと、様々に変化が起こった一か月でした。

様々な意味で、対人関係に変化がありました。多かれ少なかれ、それは僕に大きな影響を残して、今はかつての時間をちょっとした感傷を伴って思いだすのです。人間世界で生活する以上、人との付き合いは必須で、人間的に生きていくことのある種の根底であると言えるでしょう。どんな人であれ、自分の人生に登場した人との関係の変化は自分の生活に影響を与えるものだと思います。

住み慣れた家を離れました。荷物を全てトラックに積み、長年の汚れを落とし、ふと床に腰をおろして天井、壁、ドア、窓、クローゼット…いつも何気なくそこにあったもの達に目をくれてみると、どの部位にも思い出が詰まっていることに気付きました。彼らは、ここで起った様々な事を全て傍観していたわけだし、「常にそこにいること」で僕に、気付かないけれども不思議な安心感を与えてくれていたのだから、この家を出て行きたくないような、そんな気持ちにさせられました。ドアにカギをおろしたとき、涙はでなかったけれど、心が沈んでいくような、一つの物語が終わっていくような気がしました。

この一カ月の間、すごく喉の調子が悪く、悩んでました。歌い手としての最低限の歌唱法と喉のケアの方法を目下勉強中であります。喉の調子が悪いというか、ずっと風邪気味です。



ということで、とりあえずのライブ告知です。


10/17 (月) @新宿 Nine Spices
18:00 open / 18:30 start
Ticket : 1500yen (adv.)

10/31 (月) @下北沢 ERA
18:00 open / 18:30 start
Ticket : 1500yen (adv.)


なんだか感傷的になってきたので、寝ます。最近心がとても弱くて嫌になります。

2011年8月13日土曜日

成果の実感まで数百マイル

8/9(火)下北沢ERAに来ていただいたお客様、本当にありがとうございました。また、対バンで一緒になったバンドさん、お疲れ様でございました。特にDinnerさん!前回見たときより数倍かっこよくなっていたので、正直あせりました。またどっかで対バンしたいですねー。

ここ数カ月くらい目下ボーカルトレーニングに励んでいるわけですが、練習のときにはなんとなくできても、やっぱり本番では思うように声がだせない日々が続いており、ちょっと落ち込み気味です。相方いわく、腹筋をすることでうまくコントロールできるようになるらしいとのことだったので、腹筋ははじめてみたものの、やはり毎日声を出すことが大切なのではと思って、できるだけ毎日歌うようにしております。

毎日の積み重ねしかないんですね、こういうことは。

きっと9/1(木)@下北沢ERAでは、相当な進化が見せられる…と思いたいんです。

なのでみんな、遊びにおいでよ!冷やかしにおいでよ!


最近ちょっと元気なさげなので、ちょっと実家帰って富士山でも見て英気を養ってこようと思います。


えーじ

2011年7月26日火曜日

ああ、なるほど

なぜ長期間ブログを放置してしまったのかがわかった。
最後の投稿からしばらくして、僕はノートを購入したのだ。これに日々思った事を不定期につらつらと書き、感情吐露の場所として使っていたのだ。以前はここをよくその場所に使っていだが…

今までの投稿をざっと読み返してみると、あまりに個人的な内容が多い。ここはバンドのブログである事を念頭に、今後更新していきたい。

とはいえど、更新ネタがつきたら、また私的感情大爆発させちゃうんだろうけどね。


では。


えーじ